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2018年6月3日日曜日

映画「テレビジョン」あらすじ

おすすめベンガル映画①

「テレビジョン」টেলিভিশন 1.基本情報 2.監督情報 3.あらすじ (ネタばれ注意!) 4.感想





1.基本情報

制作:2012年
公開:2013年
監督:Mostofa Sarwar Farooki

アジア太平洋映画賞の審査員賞、ジョージアアジア映画祭で、Golden Hanuman Award を受賞するなど、国内外からの評価を受けた作品です。第86回アカデミー賞のバングラデシュ代表作品としても選ばれた一本です。結局、エントリーは叶わなかったようですが、バングラデシュでも評判となった映画だったことが良くわかります。


2.監督情報

☆Mostofa Sarwar Farookiってどんな人?


1973年生まれの45歳。大学でテレビやドラマ制作を学んだあと、本格的に映画監督としての活動を始め、その後は数々の賞を受賞している実力派映画監督です。彼は今までとは違った視点で映画を撮るプロフェッショナルです。例えば、標準ベンガル語ではなく、方言を積極的に取り入れること。さらに、今までの監督は誰も切り込もうとしなかった宗教をめぐる争いを正面から批判すること。これらの姿勢は、特に若いベンガル人から絶大な支持を受け、bollywoodの模倣作品ではなく、固有の「ベンガル映画」を作りたいと望む人々のリーダー的存在になっています。今回ご紹介する「テレビジョン」は、彼の実力を知らしめた代表作でもあります。

3.あらすじ



この映画は、バングラデシュの小さな村の村長ラフラーミンがテレビジョンの禁止の是非についてテレビのインタビューを受けるシーンから始まる。彼がテレビジョンを禁止したことで、民主的権利を奪われ、村人は闇の中に閉じ込めてられている、宗教指導者もテレビジョンに出ているではないかと切り込むレポーターに業を煮やし、彼はインタビューを打ち切る。
  村長がテレビジョンをそこまで毛嫌いする理由、それは単純であり、偶像礼拝を禁じるイスラーム教の教えに反するからだ。彼はまた若者の携帯電話の所持も禁止していた。「若い男女が夜な夜な通話したり、フェイスブックなどというものにうつつを抜かし、教科書を読まなくなっている」という新聞記事を読んだのだ。若者のために下した決定だったが、若者たちにとっては「山ほどルールを作り『正しい道を歩め』と締め付けている」という不満を引き起こす。
  そのような中で、村長の息子ソライマンと彼の使用人モジュヌが共謀して演技し、若者の携帯電話所持を認めさせたところから、事態は徐々に進展していく。ソライマンはビジネスに行ったはずのダッカで、村にいる恋人コヒヌールとの電話で、携帯電話がもたらす離れた場所にいる愛しい人の生活を覗き見られる幸せに夢中になってしまう。さらに彼女とテレビ電話をするためにコンピューターを手に入れ、一晩中隣に寄り添うようにして話を続ける。彼にとって、「コンピューターはアッラーが授けた贈り物」だったのだ。

  ソライマンがそのようにしてダッカで時を過ごしていたころ、村では大きな事件が起こる。小学校教師のクマルが、テレビジョンを村に持ち込んだのだ。
 それを受けて、ラフラーミンはモスクで祈りをささげながら、テレビジョンの是非について考える。「西から来たユダヤの民がもたらしたテレビジョンを禁止すれば、異教徒の信仰の妨げになるし、認めれば、わが信仰(イスラム教)の妨げになる」と述べて、苦しい胸の内をアッラーに吐き出す。結局、テレビジョンはヒンドゥー教徒だけに見ることを許し、イスラーム教徒には決して見せないという条件付きで、クマルの家に置くことにした。だが、その晩、村の人々が続々と集まってくる。一度は村長命令だからと見せることを拒否したクマルだが、夜なら誰にもわからないという人々の圧力に負け、皆が見られるようにした。しかし、テレビジョン見たさに、子どもたちが続々とクマルの家で開かれる算数塾に通うようになる。
ある日、ラフラーミンが村に来た時に、「テレビジョンがないと死んでしまう、テレビジョンを見せろ、さもなければ毒を飲む」と訴えてきた人々がいた。彼らはみな薄給の小学校教師で、収入不足を補うために自宅で塾を開いているが、子どもたちがみな、テレビジョンがあるクマルの家に流れていってしまったので、生計を立てられなくなってしまったのだ。その様子を視察にきたラフラーミンは、イスラーム教徒でも子どもたちはテレビジョンの音を聞き、大人たちは鏡を通してテレビジョンを見ているということを知る。テレビジョンは、村人が見守る中、海に沈められる。
 だが、その後、若者がテレビを見に川を渡り、市場に行くことが問題となり、ラフラーミンは、市場に行って村の若者を見つけたら罰するようにと命令をだす。すると、映画館にいた多くの村人が、引き立てられてラフラーミンの前に来た。「村人の行動は私の理解を超えた」と怒る村長に、村人たちは、映画やテレビジョンと決別するという宣言を述べる。その後の協議で、村に査証制度を導入することと、ハラールなテレビジョンを作ることが決定された。このハラールなテレビジョンというのは、巨大なテレビジョン型をした舞台で、人々がその中で演技をして、それを楽しむというものだったが、それを見たラフラーミンは「若者に間違った歴史を教え込む『芝居』は罪深いもので、想像は悪である」と批判し、それも中止になってしまった。
一方、ダッカにいたソライマンは、体調を崩していた。テレビジョンを直接見ていたということで、ラフラーミンに命じられ、耳たぶをもって三回屈伸するという屈辱的な見せしめの刑となったコヒヌールからもう連絡をとらない、と言われ、彼女と音信不通になっていたのである。お酒をあおりながら恨み言を述べるソライマンの代わりに、モジュヌがコヒヌールの家に行く。すると、彼女は、自分と結婚するために必要な条件を二つ出す。一つ目はソライマンの父ラフラーミンと戦うこと、二つ目はテレビジョンを買ってコヒヌールの家に来ること、である。これを聞いたソライマンは激怒し、一度はコヒヌールとの絶交を考えたが、やはり、コヒヌール以外の女性との結婚は考えられなかった。ついに彼は、拡声器を用い、父親には何も告げずに、村にテレビジョンを持ち込んで、だれでも自由に見られるようにしたこと、コヒヌールと自分が結婚することを村中に触れ回る。「我々は断じて抑圧の対象にならない。現代人として立派に生きる、声を上げる」と叫び続けるソライマンの主張は村の若者たちの心を打ち、ついに暴力行為にまで発展してしまう。父親の掟すべてに黙って、従順に従ってきたソライマンが、初めて声を上げ、父親に反抗した瞬間だった。

愛する人との結婚のためだったとはいえ、父親が傷ついている姿を見たソライマンは、のちになって、この行動を深く後悔する。父親に抱き着き、泣きながら謝るソライマンに、自分がハッジ(イスラム教の聖地、メッカを巡礼すること。イスラム教徒は一生に一度のハッジが義務付けられている。)から帰還したら、お前の結婚式を挙げるから準備をしておくようにと命じる。
だが、ハッジに行くためには、パスポートが必要であった。そのためには写真をどうしてもとらなければならないと知ったラフラーミンは食事ものどを通らないほど大きなショックを受ける。周囲の説得で、いやいやながらも写真を撮り、パスポートを作り、いざ村を出てダッカに来た村長。ダッカの街中には、宣伝広告の写真など、村長が禁じてきた「イメージ」があふれかえっていた。だが、悪徳旅行業者に騙されてしまい、ダッカで助けてくれる人もおらず、結局メッカに行く道は閉ざされてしまった。このままでは、村人に顔向けができない、と泊まり込んだダッカのホテルで、絶望に打ちひしがれて、食事をとることもままならなくなる。そんな彼の耳に、ある日突然飛び込んできたのは、ハッジの音である。なんと、彼が滞在していたホテルの、隣の家のテレビジョンから聞こえてきたのだ。彼はいてもたってもいられなくなり、テレビジョンをつけてくれるよう、近くにいた人に頼む。そして、テレビジョンをついに見てしまった背徳感と、離れた場所であってもハッジが体感できる幸せにむせび泣きながらアッラーに祈りをささげるシーンで、この映画は幕を閉じる。



4.感想

この映画は、一度だけ、東京外国語大学で日本語字幕付きの上映会があり、観に行きました。一度見た時は、正直何がなんだかわかりませんでしたし、ラフラーミンの極端さに違和感を感じていました。しかし、ベンガルの人と接していくうちに、彼らの生活はイスラム教、(あるいはヒンドゥー教)に根本から根ざしたものであることを知り、決してこの映画は大げさではないのだとわかりました。日本人の生活には、宗教があまり結びついていないと思います。でも、バングラデシュの村社会には、宗教が人の生活に浸透している場所が多く存在しています。イスラム教とヒンドゥー教、宗教と現代文明という一見相いれない存在をどのように共存させていくのか、人々の戸惑いや感情が良く伝わってくるいい映画でした。


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